【愛の話】エゴの私と、ほんとうの私と、その根源

  • 「エゴ、思考、観念としての私」レベル
  • 「ほんとうの私」レベル
  • 「その根源」レベル

これが、ぜんぶ、みんなにある・・・そんなふうに、感じるのですが。

エゴの私、思考、観念、のレベルだと、

愛はありません。

ほんとうの私・・・

ここのレベルも、愛はありませんが、愛とつながっているでしょう、きっと。だから私達はみんな愛を知ってるんですよね、本当は。

愛の記憶があり、それにアクセスすることも可能です。

そして、その奥にある根源、と呼びたいところ。

これは全員にあります。これは、愛そのものです。

そして、この愛があるから、生きているのです。

虐待をうけても、ひどい境遇でも、今、ここに、生きている、というのは、愛があったからです。親に大切に育まれました、という人もです。

愛がないと、人は生きることができません。

なので、深い、深い部分で、私達は、愛とつながっている、と思います。

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でもですね、愛は、「思考」とか「感情」とは、まったく異なる次元にあります。

なので、「愛を与える」などということは、本当は不可能、です。

愛は、知らず識らずのうちに、にじみ出て、溢れ出ることはあったとしても、自分がコントロールしてどうのこうの、というものではないと思います、そもそもが、です。

これは、愛を真に知っている人ほど、ふにおちてます。

自分が信じている「愛」の次元、というのも、いろいろあると思いますが。

「愛を与える」「愛を振りまいています」「愛を溢れさせています」「私が祈れば、愛が届く」というのは、エゴのなすわざです。これは、愛でしょうか?うんこではないでしょうか。

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私達は、全員、全員ですよ、愛が根底にあります。

でもそれはエゴでコントロールできるものではなく、「与えてあげましょう」というものでもない、と思います。

愛情や好意は、いくらでも、溢れ出ると、思いますが、それはエゴあってこそです。

「愛の人」というのは、私は、「別にみんなそうじゃん」と思います。

それが、なんかすごい感じになってたり、特別な感じになってたり、そういう仲間意識ができちゃうのは、ちょっと前に流行ったかもしれませんが、危険です。

「愛の人」は、全員です、ひとり残らずです。

それを純化していった先にあるのは「私は愛の人です」などではないのです。私は、と言ってる時点でエゴです。

とてもとても純粋であったとき、誰かはあなたをみて「愛」を思い出す、ただ、それだけのことです。

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愛は、すべての人の根底にあり、思考という「鎧」を脱げば、たくさんの愛を感じ・つながるでしょう、全員です。

愛がないと、ここにいません。

さらにいえば、悪魔も天使も、妖怪も悪霊も”神々”も、カップラーメンも旬の野菜も、根本をたどれば、ほんとうの、ほんとうの、源は同じです。

その先に枝分かれがあったとしても、ここを、真に受け入れていることは、とても、たいせつ、かもしれません。

ああ、でも、もしかしたら、「私は愛の人です。愛を与える人ですっ」って、本当になってる人(本当に、というのが大切です)って、数%いらっしゃるかもしれなくて、それは、そういう人で、それを支配と呼ぶ・・・というのは、私も、フラットに研究・仮説と検証を行ってきて、やはりそう思います。そういうお役目の人も、なかにはいる、ってことです。あれ、大丈夫かな、こんなこと書いちゃって。

「愛の人」って、みんなです。

「愛の人です」って、自分が自分で名乗るようなものじゃなくて。

誰かから、言われることはあるかもしれなくて。

・・・そういうものかも、しれない、と思います。

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